Blog活動日誌

先生の役割

 インターネットが普及して、誰しもが百科事典を持ち歩いているような時代になった。知らないことはインターネットで調べたら、すぐに知ることが出来る時代になって『先を生きていた者』として、『教える』という先生の存在価値は大きく揺らいできたとも言われている。

 しかしながら、個人的にはそうは思わない。先生の役割が『教える事』が中心だった時代から、教える事よりも『進行する事』に比重が移ってきただけだ。

集団活動には参加せず、中立的な視点に立って、活動を支援することは『先を生きてきた者』の経験と知識があってこそ出来ることで、一朝一夕で調べた情報を『知って』いても、そう簡単に出来ることではない。
 つまり、様々な知識を持った子どもたちの議論を見守り、それを支えながら円滑なものへと導いていくことは、やはり先生にしかできないのだ。

 一方で少し前とは異なり、様々な知識を持っている子どもたちが増える中で、先生が一番知っているという時代ではなくなってきている現実を受け入れる必要もある。
 今でも時々、先生と呼ばれることがある政治家も同じで、「先生」と呼ばれる意味、そして役割を見直す時期に来ているのではないだろうか。

 僕たちは子どもたちから、教えてもらうことが沢山あることを理解しておくべきだし、「若いくせに生意気だ」という概念は取っ払っておく必要がある。

 ちなみに余談だがアメリカでは「若いくせに生意気だ」という言葉は理解されないそうだ。英語にしたところで、その真意が理解されない。それは若い人が年配者より劣っているという概念はなく、全て能力で判断されるからだそうだ。

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